雨と、少女と。

(……あ)
 顔に、雨粒のようなものが当たる。
 空を見上げる。空は、晴れている。しかし、雨はポツリポツリと降ってきていた。
(そうだ、今日傘持ってないんだった)
 近くにコンビニはあっただろうか。微かな記憶を頼りに、ボクは早歩きで動き始める。

***

「ありがとうございましたー」
 住宅街の中、コンビニを見つけて、安いビニール傘を買う。そのついでに、グミも一袋。ナタデココグミとかいう、初めて見かける商品だ。
 空は晴れている、だけど本降りだ。天気雨とか、狐の嫁入りとか言ったか。傘に打ち付ける音が思考をこれでもかと妨害する。
 ピチャ、ピチャ。一歩踏み出すたびに、靴と濡れた路面が干渉する音。気持ち悪い天気だ。こんな日には必ず奇妙なことが起こる。そんな気がした。
 その予感が的中したのだろうか、少し行くと、女の子が独り、びしょ濡れで空を仰いでいた。長い間雨に当たっていた様子で、髪や着ている服は肌にしっかり張り付いている。何よりも、その眼が虚ろで。何を感じているか、判らない眼で。
 ボクは彼女に近づき、傘に彼女を入れる。
「……何?」
 それに気付き、彼女は声を発した。
「何って、雨に濡れていたから……」
「それじゃ、チカラを感じられないじゃない」
 チカラって、何なのだろうか。まあその一言で、ボクは直感する。彼女に関わるべきではないと。
「ま、それならいいんだ、風邪引かないようにお気をつけて」
 ボクが立ち去ろうとすると、彼女はボクの、傘を持っている右の手首を掴む。痛いくらいに。
「待って」
 それまでとは違い、眼の中に火が燃え始めたように、ボクをじっと見る。
「それ、もらっていいかしら?」
「傘?」
「いいえ、そのビニール袋の中身」
 確かに、ボクは傘と同時にコンビニで買ったグミの入った袋を一緒に持っていた。しかし、グミが欲しいとは、果たして。でもまあ、百円玉二枚もあれば買える商品だから支障はない。
「でもそこのコンビニで、買えるものだけど……」
「価値があるのよ、色々とね」
 この少女の発言は、やはりよく判らなかった。
「欲しいものがあるのよ、この世界を守るためにね」
 雨にすっかり濡れた彼女はどこか、遠くを見ている。向かいの住宅の壁ではない、どこかを。
「世界を守る……?」
「そう、世界を守るのよ。だから、チカラを手に入れないと」
 しかしその言葉に、虚言は含まれていないようにも感じた。だからこそ、ボクには彼女が不安な要素としてあって。
「先を急ぐので、失礼するね」
 ビニール袋だけ渡して、ボクは逃げるように彼女の許を離れた。
 ボクは目的地へとついた。博物館の横にある、大規模なホテル。ロビーでボクはとある人物と会うことになっていた。面識は、あまりない。ネットでのビデオ通話で顔は知っているのだけど、直接会ったことはない。
「はじめまして、と言ったほうがいいのよね」
 そこにいた女性は、通話で聞いた声を持っている。
「雨の中、大変でしたよね。このような日に呼び出す形になってしまい、申し訳ありません」
「いえいえ」
「クロスフィア研究所・所長、雨宮美菜子と申します。よろしくお願いしますね」
 ミナコというその女性は、名刺をボクに渡す。ボクは名刺を持ち合わせていないので、交換ではなく、一方的に受け取る形になる。
「しかし、クロスフィア研究所って……?」
「そうね、日本で今、一番重要なインテリジェンスの要といえばいいのかしら。予算は官房機密費から出さなきゃいけないからカツカツだけど、日本の、いや世界の命運を分けるといってもいいかもしれない重要な組織よ」
 先ほどの少女も「世界を守る」とか言っていたな、と頭によぎる。なんて偶然だろう。
「ところで、あなたの名前はアキくん、いやアキさん? でいいのよね」
「そうです、榊原亜紀です」
「ちなみに、男の子だったかしら」
「そうですね、よく間違われますけど。名前も相まって」
 中性的、と何度言われたことか。学生時代、それで何度困らされたことか。
「私はね、その中性さも買って、あなたを招き入れようとしているの。相手に気づかれない究極の方法って、性別を変えることなんだから」
「つまり、ボクじゃないと、ダメなんですね」
「大げさに言えば、そうね。あなたが来てくれたら、すごく助かるわ」
「……やります」
 ボクがそれに一番合っているというのなら、そのためにわざわざ会いに来てくれたというのなら、それに応えない理由はなかった。
「ありがとう。また近いうちに連絡するわ。それまで、お気をつけて」
 ホテルを出ると、雨は上がっていた。ボクは海の匂いがするほうへと歩く。ガラス張りの構造物の上にゲイン塔が建つ二百三十四メートルの電波塔、それを横切るように虹が見える。
「承諾して、しまったのね」
 背後からの、聞き覚えがある声。ボクは振り返る。体を濡らした状態のまま、先ほどボクがナタデココグミを渡した少女が立っている。
「……この街が、どうなってしまうかも知らずに、承諾してしまったのね」
 ボクには彼女が、変なことを言っているとしか聞こえない。
「世界を守らなくちゃいけないから」
「その選択は本当に、世界を救うのかしらね。……そうね、世界を守って、世界を壊す、といったほうが正しいのかも」
「いい加減にしてくれないか。ボクは決めたんだ」
 少女は、静かに、電波塔の方を見る。
「世界を、守るんだ。ボクだけの方法で」
「そうね、私も守るのよ。世界をね」
「じゃあ──」
 協力できないか、と言おうとしたが、発言は遮られる。
「でも対立せざるを得ないの、クロスフィア研究所とはね」
 急に彼女の発言が真っ当に思えたのは、その、知らないはずのワードが出てきたからか。
「深入りしていけば解るわ、私の言っていることは。それは、あなたをブレさせることになる」
「そんな保証は」
「まあ、私の言葉をインプットさせられただけでも、目的は果たしたから。じゃあ、ね」
 少女は静かに、消えるように去ってしまった。

***

 ボクは思い出す。その時の、彼女の発言を。
「それは本当にフェアかどうか、考えてみたことある?」
 任務の対象者である海部セーラが、あの少女に重なってしまう。
 ──あなたをブレさせることになる。
 その言葉は、年月が経った今やっと、意味が解ってきてしまった気がして。
 耳につけている交信機から、ミナコの声がする。
『世界は変わってしまったわ。何者かに操られるように』
 ボクが頭に浮かんだのは、雨に濡れたあの少女の姿だった。
 水の宇宙船と名付けられた、水を張ったガラス天井の上。日差しが注ぐ中、あの時と同じく雨粒が顔に当たる。ボクは、ナタデココのグミを一つ、口に入れた。

おわりであり、はじまり。